2011年11月18日金曜日

感想 「池大雅ー中国へのあこがれ」いってきました

ニューオータニ美術館で開催中の「池大雅ー中国へのあこがれ」へいってきました。展覧会を監修された小林忠先生の講演会もあわせて聴いてきました。



少しずつ、色んな展覧会に足を運びながら、こんなに素晴らしいものが日本ではつくられてきたのかと毎回新しい発見がいっぱい。この時代だからこそ、美術館という場所で過去の大作をすぐに見られるのはありがたいけど、もっとひとつひとつゆっくりとどまりながら見たいという矛盾した気持ちも起こる。でもうかうかしているうちに、また次の展覧会が始まり、あちらへこちらへとせわしない。

せわしいわー !

今回の出品作品もほとんどが個人蔵となっているもの。次はいつ見られるか分からないとおもうとやっぱり足を運びたい。小林先生のいうとおり、絵や美術品との出会いも一期一会。たくさん見たいという欲求も尽きないけど、それぞれの出会いをきちんと意味のあるものにしたい。
それにしてもこの時代の情報量の多さ! 昔の人よりも遥かに多くのものを見ているにちがいない。過去の人たちは、もっともっと少ない情報から今より遥かに大きい想像を膨らませていたんだろうな。しかし今得られるその情報をバッサリ捨てるのも忍びない。まあ、あまり気負わず、あと50年くらいかけてゆっくり見て、ゆっくり色々なことを考えればいいか。

でももしかして、そんな情報量の多さによって現代人は萎縮している? 講演を聞きながらそう思ったりした。
大雅は当時中国から輸入された中国画から多くのことを学んだそうだけれど、それらの絵のほとんどはそんなに質の良くない物というかニセモノだったり、超一流品を見ていたのではないそう。そこから大雅は行ったことのない中国の景色を想像し、絵を描いていた。だから大雅の絵の方が、そのお手本よりもよっぽどうまかった。超えられないと思うものをたくさん見すぎるよりも、「なんだ」と思える程度の情報もある時には必要なのかな。素晴らしいものを見てそれが創造の動機になる人も入れば、多く知りすぎて意欲が削がれる場合もあるかもしれない。

でも知りたい、学びたいという知識欲は凄まじく持っていたから、今の人と比べると考えられないくらい若い頃から優秀で知識も豊富な教養人だった。中国画の研究とか勉強も熱心に行い、絵の技術も若くして本当に優れていたらしい。日本人は知識欲があるとよく言われるけれど、それは何故? ほんとうにそうなのかな? 島国だから外のものへの好奇心が知識欲を育んだの? そのへんも考えるとおもしろい。 

大雅は53歳で亡くなる。幼い頃から神童といわれるほどだから、天才だったと言ってしまえばそれまでだけど、人の寿命って何だろうと考える。もしも今も平均寿命が50才なら、一体どうなるんだろう? 寿命が伸びるとその分為せることも多くなりそうな気がするけど、若くして亡くなった過去の偉人たちをみるとそうでもないような気がしてくる。人間の一生の総エネルギーって、寿命が短かった頃と変わりないんじゃないかな。50で死ぬなら、ゆっくりゆっくり学生時代を送ったりするんじゃなくて、もっと人生を短縮するよね。人は先の寿命を見て、人生のペース配分をしているのかな。そりゃ婚期も遅れるね。。。

展覧会について。
出品点数は13点。足を運ぶ前は、数も少ないしこじんまりと見る感じかなと想像していたら、見た後の感覚ではあれ13点だった?と思うほど、作品から多くのものを見た気がする。本当に文人画は、画中に引き込まれてしまってひとつひとつ時間を使うから、一度に見るにはこれぐらいがちょうど良い分量。気の遠くなるような、心地。far away heart と小林先生はおっしゃっておりましたが、本当にそういう心地よさ。

まずとにかく見たかったのは、東山清音帖の洞庭秋月図。資料でしか見ていないから実物を見たかった。


通称、「ピョロリのおじさん」。 と勝手に呼んでいる。ピョロリの音が聞こえてきそうにすばらしかった。波のちぢれ具合も一本一本すばらしい。この境地に辿り着きたい。

カラフルでなごやかな作品も多いけれど、やっぱり心引かれるのは空白を残して、限りなく少ない描線で本質を突くような表現をしているところ。それは遠くの船を描いた部分だったり、朱赤の漆盃に黒でさっと描かれた風景だったり。デザインとして見てもきっと学ぶところがたくさんあり、刺激的だった。

知らぬ間に池大雅をすきになる。人物像についての話を聞いても、作品を見ても、その奥深さに、池大雅の研究に打ち込む人の心が分かるような気がした。

0 件のコメント:

コメントを投稿